まっきんのブログ

衝動高めの学生の【神戸街ブラ】【日常】【珍スポ巡り】

人が死んじゃうのはとても悲しい

 

叔母さんが乳がんで亡くなってから1ヶ月経った。

まだ40代だった。

 

この1ヶ月は毎日のように叔母さんのことを思い出しては悲しい気持ちになっていた。


1年に3回ぐらい会う仲で、私は叔母さんに好かれていた。いつも会うたびニコニコの笑顔で名前を呼んでくれた。

 

いろんなことを思い出す。

特に私がまだ小学生の頃の記憶がよく浮かび上がってくる。

 

一緒に三重県に旅行にいったこと。

温泉に一緒につかって、身体をごしごしこすったら消しカスみたいな垢がでてきた。

面白いのでいろんなところをこすっていたら、「垢はね、身体にとってある程度必要なものだから無理して落とさなくていーの。」

と言われた。

叔母さんは医者だからいろんなことを知っている。

 

また、こんなこともよく思い出す。

あるとき、そそっかしい私がなにかの忘れ物をしたとき、叔母さんはこう言った。

「わいちゃん。確認だよ。確認。」

これを言われてから、素直な私は電車を降りたあと忘れ物をないか「確認」。

ことあるごとに確認をするようになり、もう忘れ物はほとんどしなくなった。

 

あとは、叔母さんが聴いていた音楽について。

私はまだ小学生ぐらいのとき、叔母さんが運転する車に揺られていた。

そのときかかっていた音楽が一青窈の「ハナミズキ」だった。

「君と好きな人が100年続きますように」

という歌詞がある。

叔母さんは離婚したあとだったので、幼いながらもわたしは(好きな人...100年...)と離婚と色々照らし合わせて考えてしまい、未だにこの車内での記憶が残っている。

 

あとは、抗がん剤の治療が始まってからは髪の毛が抜けてしまい、スキンヘッドの姿を見せてくれたこと。

(医者なので、癌になったらこうなるよーっていうのを会うたびに教えてくれるような人だった。)

叔母さんはAKBの渡辺麻友にそっくりの美人さんだったので、ほとんど坊主になっても可愛かった。

私は素直に「オードリーヘップバーンみたい。」と言った。

 

するとそれが嬉しかったようで、一瞬びっくりした顔をした後に「そっかぁ。ありがとう。」

と言っていた。

 

そして叔母さんが亡くなったあと、葬式用の黒い鞄を借りようと叔母さんの部屋に入った時、そこにはオードリーヘップバーンの写真が飾られていた。

あのとき私が言った言葉が嬉しくて、部屋に飾ってくれてたのかな?

わからないけど、もしそうだったらなんか嬉しいな。

 

必死に思い出しては書き留めないと、時間が経ったら忘れてしまう。

 

あとは羽生くんが好きで、羽生くんの入浴剤とかグッズとか色々集めていたな。

 

亡くなった後に叔母の部屋にはいると、スケートを観に行った時に買ったであろうタオルがベッドの上にあって、机の上には錠剤があり、床には私の兄ちゃんが作ったTシャツが綺麗に折りたたまれて、紙袋の1番上に置かれていた。

 

叔母さんの持っているスケートのタオルは私の家にもあるよ。

お兄ちゃんが作ったTシャツ...
3年前にこれを着て私の大学に来て一緒に写真を撮ったね。

薬がたくさんある。叔母さんは漢方薬の勉強をしていて、よく漢方をくれた。

多分自然の力を信用していて、きつい薬とかは飲みたくなかったと思うけど、治療のために飲んでいたんだろうな...

もう本当に色々思い出しては、もっと会っていればよかったな、いや、コロナがなかったらもっと会っていたのにな、とか考える。

 

なにより辛いのが、叔母さんの息子が1人になってしまうこと。

離婚してお父さんがいないのにお母さんも病気で亡くなったら、どうするんだよ。

 

世の中ってかなり不平等で、ひとりで全てを背負い込まなければいけない従兄弟のことを思うと毎回涙が出てくる。

 

私は叔母さんにあんまり何もしてあげられなかったので、従兄弟には良くしてあげようと思う。

せめてもの恩返し...

 

○亡くなる直前

人が死ぬ直前というのは見ていてかなり辛いもので、私は最初、呆然と立ち尽くすしかできなかった。

このときのことは非常にショックなことなので、書けない。

書いたらバチが当たりそうな気がするのだ。

かなりショックな瞬間だったので、この時の映像がよくフラッシュバックして頭に焚き付けられる。

 

一応シンプルにそのときのことを書くと

私の知っている叔母さんじゃない人が横たわって苦しんでいた。

それだけしか書けない...

人の最期というものはだんだん弱ってきてやがて死んじゃうってものだと思ってたけど、全然違った。

100人以上の患者さんの死に目にあってきた看護師のうちのお母さんも「あれはあんまり見ない感じの最期だった。心臓が強かったんだろうね...」

と言っていた。

 

亡くなる1ヶ月前、叔母さんがだんだん弱ってきているのを知った時。

わたしが「会いたい」って言っても「コロナ流行ってるし、また元気になったら会おうね」

って返ってきたのも、自分の弱ってる姿を見せたくなかったからだろうなぁ。

 

本当に我慢強くて負けず嫌いで、弱っているとこを誰にも見せたくない人だったんだと思う。

 

じゃあ最後に...

伝えたいことは手紙にして空に届け〜。。

 

 

拝啓

美人で努力家で頭が良くてなんでもできる叔母さんへ

 

私はあなたのような強い女性になりたいと思い、医学部を受験しました。

女手1人で稼いで、おばあちゃんも息子も養い、好きな車を買って時には海外旅行に行くようなかっこいいあなたに憧れたのです。

 

結果的に医者にはなれませんでしたが、女でも男に頼らず強く生きていきたいという気持ちに変わりありません。

そんな風に思わせてくれてありがとう。

 

最後に いとこ(叔母さんの息子)の人生がハッピーになるように天国から見守っていてね!

 

じゃあねー。またお仏壇に手を合わせにいきます!

 

わたし より

 

 

時系列ぐちゃぐちゃで読みにくいかもですが書いたので少し、気が楽になりそうです...
でも個人的な内容がとても多いため、あとで消しちゃうかもしれません...悪しからず...